老いらくの作文。

どうも、朝っぱらから血を取られるのは気持ちが良くない。この体内に流れる大切な血は蚊に吸わせるのすら勿体ないのに、注射器でドバドバ吸われるので不快極まりない。肝臓のためとはいえ、腹が立つ。

肝臓話は飽きたから止めるけど、依存症としてのアル中ではないことを証明するために、今夜も焼酎を封印している。おかげで口寂しく、晩ごはんを食べすぎ、胃が重い。

検査の結果は来週まででないので、また一週間無駄にしてしまった。おまけにアル中で採用取り消しの怖れもあり、いよいよ不様な老後へと邁進しかねず気が気でない。

が、落ちこんでいてもつまらないから、今日は創作系の推敲に精をだした。前にチラッと手を着けた少女の話だが、推敲というのはやりだすとキリがなくて、遅として進まない。唯一の救いは、没入できることくらい。昼食後からキーを叩きだし、午後四時くらいまで続け、原稿用紙にすると三枚くらい進めた。代筆速度の百分の一くらいだろうか。というくらい遅い。

ふと思いつきで一部シチュエーションを変えたり、加筆してしまうと、ずーっと前まで遡ってやり直さざるを得なくなり、プログラミングみたいに面倒臭い。結末だけがすでにあるけど、プロットもなしにやりだしたのでいよいよ遅くなる。手慣らしだから良いけれど、結末部分との文体的整合も取れず、とても難しい。故に愉しいという面があるが、いつごろある程度の形にできるのか見当もつかない。

結末というのは前にも記したがセレスタイトという鉱物みたいな色の瞳の謎の女性を描いたもので、原稿用紙で十枚もない位の小編にしたので文体として作りやすく、それが気に入ったから長めの短編程度まで、文体を保って物語を拡大できるかどうか試そうと考えたのだった。これが、やはり、難しく、どうしても前半がだれてくる。ある程度の長さにしようとするとどうしてもストーリーの比重が多くなり、表現が制限されやすくなる。その辺、クレジオとかマルケスとか宮沢賢治とかの詩情の偉大さを痛感する。この三者はそれぞれまったく異なる文体だけど、ある種の神話世界を構築しているところは似ているだろう。私的には宮沢賢治が断トツの一等賞だけど、クレジオの独特の精妙な描写も呆れるほど素晴らしく、よくもまあこんな具合に描けるものだなとほとほと感心する。いわゆる文体というものの賜物で、そういう神話世界を意図して描出しているのだから凄いというしかない。近頃の日本の作家のものでは、そんなのを目にしたことがない。一時マルケスの真似だらけになっていたけど、リアリティーが違いすぎるというか、神話とはかけ離れたただのストーリーテリングにしか見え\xA4

覆ǂ辰拭C羮綏鮗,❹覆鵑箸ɞ耄丨剖瓩鼎韻燭隼廚Δ韻疋ぅ泪ぅ舛世掘〴飮碍鯑鵑気鵑眸垜海靴篤帆呂肪綣蠅靴燭茲Δ世辰燭韻疋ぅ泪ぅ舛世辰拭4飮海気鵑良儵呂ǂ藥廚┐个發辰塙發澆帽圓韻襪呂困覆里棒砲靴い覆抜兇犬襦◀沺⊇馼召犬磴覆いǂ藥澆瓩箸海Α\xA3

作文は愉しく、時を忘れてしまう。ただ、思いを言葉に照らしてコツコツと並べていくだけなのに、思いがけない佳景に巡り会うこともある。ひと言替えるだけで、弛んでいた印象がキンと張りつめた世界に変わったり。意図的に全体を統一するのは至難の業だけれど、言葉の綾なす世界を切り詰めたり繕いだりするだけで、それまで見損なっていた思いがふと体の中に沁みこんできたりもする。

ことに快いのは、あ、そうか、これを表したかったんだ、と気がつくとき。意図していたことと違うのに、その方が相応しいということがある。自分のダメさを知ることでもあるけれど、快い。

そんな点は武術と似ているかも知れない。頭で考え続けて仮説を立てて試みるが、まったく結果に結びつかないことは多いが、そんなことを繰り返すうちに、意図していない現象の可能性にふと気がつくことがある。さらに仮説を再構築して試すなどと続けていると、いつの間にか思いもしていなかった技が体に沁みこんでいたりする。

これまで作文は商売だったのでそういう愉しみ方をしていなかったが、武術と併行してやっていたおかげで、愉しみ方を喪失せずに来られたのかも知れない。ブログ日記の役割も私的には大きいものだったろうと思う。

どんなことであれ、愉しめ。というのが私のひとつの信条なので、堪えられる限り愉しむ。さすがに血を取られるのは愉しめないけれど、奪われた血液を取り戻そうとパクパク食べれば愉しくなる。いや、胃が重くなるだけか。

作文についてはいよいよ愉しむ時代になったから、もっと愉しもうと思う。これからが自分の作文世界に遊ぶ時代なので。老後の作文新時代を切り拓くために、愉しまなくては。

新しく着手したものは時間がかなりかかるから、やはり過去の嘘の推敲再掲でもやろうかな、新時代の手慣らしに。またお笑い系になってしまうだろうか。まあ、笑えないよりは良いから、気が向いたらやることにしようか。